大学院生提案型課題(長期型)報告
放射光X線回折を用いた精密価電子密度解析による分子性結晶の研究
Research on Molecular Crystals by Precise Valence Electron Density Analysis Using Synchrotron X-ray Diffraction
執筆者情報
所属機関 Affiliation
[1]東北大学 理学研究科 物理学専攻 Department of Physics, Graduate School of Science and Faculty of Science, Tohoku University 、[2](公財)名古屋産業科学研究所 Nagoya Industrial Science Research Institute
抄録/Abstract
本研究では放射光X線回折による価電子密度解析を分子性結晶に適応し、精密な価電子密度分布の観測に挑戦した。高空間分解能及び高精度で観測された価電子密度分布は波動関数に由来した微細な構造を示し、長距離電子相関まで考慮した理論計算の結果とも高い精度で一致した。この結果から、実験価電子密度分布は量子化学計算と直接比較可能であることがわかった。さらには実験価電子密度分布と量子化学計算を組み合わせることで、π軌道のような価電子の各軌道成分の実空間分布を分離・抽出することにも成功した。
本文
東北大学 理学研究科 物理学専攻 微視的構造物性 原 武 史 名古屋産業科学研究所 澤 博 大学院生提案型課題(長期型)報告 放射光 X 線回折を用いた精密価電子密度解析による 分子性結晶の研究 Abstract 本研究では放射光 X 線回折による価電子密度解析を分子性結晶に適応し、精密な価電子密度分布の観測に挑 戦した。高空間分解能及び高精度で観測された価電子密度分布は波動関数に由来した微細な構造を示し、長距 離電子相関まで考慮した理論計算の結果とも高い精度で一致した。この結果から、実験価電子密度分布は量子 化学計算と直接比較可能であることがわかった。さらには実験価電子密度分布と量子化学計算を組み合わせる ことで、π軌道のような価電子の各軌道成分の実空間分布を分離・抽出することにも成功した。 1.背景 化学結合は原子をつなぐだけでなく、分子に機能 を与える上でも重要な役割を果たしている。近年、 有機合成技術の発展により多種多様な機能性分子が 開発され、従来の単純化された混成軌道の概念を超 えた特異な化学結合が続々と発見されている。その 機能性を理解し、分子設計へ役立てるためには、化 学結合のメカニズムを理論的、実験的に明らかにす ることの必要性がこれまで以上に高まっている。そ こで筆者は量子力学的なモデルを用いずに結晶中の 価電子密度分布を実験的に抽出する手法により、化 学結合の詳細な情報を実験的に明らかにする研究に 取り組んだ [1] 。 2.研究手法 本研究では Core Differential Fourier Synthesis ( CDFS ) 法 が 研 究 手 法 の 中 心 的 な 役 割 を 果 た す。 この手法では、単結晶 X 線回折によって得られる実 験結晶構造因子から各構成原子の内殻電子の原子散 乱因子への寄与を差し引いてからフーリエ変換する。 これにより、フーリエ変換の打ち切りによるアー ティファクトを最小限に抑え、価電子密度分布の異 方性を抽出することができる [2,3] 。すなわち、量子 力学的なモデルに依存しない電子状態の直接観測を 可能としている。価電子密度分布の正しい異方性を 捉えるためには、回折強度の十分なダイナミックレ ンジと統計精度、高い空間分解能を持つデータの取 得が必要である。 原理的に、 X 線回折で得られる強度は電子数の二 乗に比例するが、ユニットセルに含まれる全電子の 内、少数の電子(価電子)の情報を精密に観測する ためには、 10 6 程度 (あるいはそれ以上) のダイナミッ クレンジが要求される。このダイナミックレンジを 保証する統計精度の測定を行うためには高輝度な X 線の利用が必須である。また、実験室系の Mo K α 線の波長(~ 0.7 Å )でこの手法を適応すると、異 方性の空間分解能が低いために電子状態の理解が困 難となる。以上の理由から、 SPring-8 などの高輝度 ・ 高エネルギーな X 線を用いた高精度・高分解能な X 線回折実験を実施することが必要不可欠である。 3.研究課題 本研究で対象とした分子性結晶は一般に結晶構造 の対称性が低く、複雑な位相の足し合わせにより平 均的な回折反射強度が小さくなる傾向がある。ま た、軽元素を含むために熱振動の影響が大きく、高 精度な電子密度分布を得る上で重要な高角領域の回 折反射強度の減衰が著しい。これら分子性結晶に SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.2 (2025 年 9月号) 107 最近の研究から 一般的に見られる特徴は精密な価電子密度分布の 観測を妨げる要因となる。そこで、本研究では測 定・解析方法の見直しからはじめ、分子性結晶を対 象とした精密な価電子密度解析を実現することを 目標とした研究を行った。精度の高い検証を行う ため、電子状態がよく知られている標準的な 2 つの 分子としてアミノ酸の中で最も単純な構造を持つ Glycine ( C 2 H 3 NO 2 ) と核酸の構成要素として知られ る Cytidine ( C 9 H 13 N 3 O 5 ) の結晶を対象とした。 4.実験および計算 SPring-8 BL02B1 に て 単 結 晶 X 線 回 折 実 験 を お こなった。 X 線のエネルギーは Glycine に対しては 40 keV 、 Cytidine に対しては 38 keV で行った。検出 器は光子計数型半導体検出器 PILTUS3 X CdTe を用 いた。試料の温度制御には回折計に備え付けられ た He 吹付け装置を用い、 Glycine は 45 K 、 Cytidine は 35 K で測定を行った。測定はΔω= 0.1 ° の fine slice 法で行い、強度抽出は 3D profile fitting 法によ り行った。本研究で実施した検証では分子性結晶を 対象とする価電子密度解析において、特に強度の小 さい回折反射を精度よく測定・解析を行うことがで きるこの fine slice 法と profile fitting 法の組み合わせ が極めて有効であった。 CDFS 法による価電子密度 解析におけるフーリエ変換では Glycine ( C 2 H 3 NO 2 ) 、 Cytidine ( C 9 H 13 N 3 O 5 )の構成元素である C,N,O, につ いて、それぞれ 1s 2 を内殻電子とした。 長距離相関を考慮することで高精度な計算を可能 とする Long-range corrected density functional theory ( LC-DFT )による理論計算 [4] を共同研究者である 長谷部匡敏様(北大) 、常田貴夫教授(北大) 、武次 徹也教授(北大)に実施頂いた。計算は Gaussian 16 Rev. A. 03 プログラムを用いて、 LC-BLYP 汎関数 (μ = 0.47 ) 、 cc-pVTZ 基底関数の組み合わせで行った。 5.実験結果と考察 ま ず、 Glycine の 結 果 に つ い て 述 べ る。 図 1 に CDFS 法により観測された実験価電子密度分布と等 方的な原子散乱因子(等方性原子モデル)から計算 した全電子密度分布を示した。各原子の等方的な電 子密度分布が包絡的に重ね合わさることで、分子全 体にわたり滑らかな分布を示す。一方、実験価電子 密度分布では、所々が途切れたような複雑な離散構 造を持つ。これが本質的であるかを明らかにするた め、特に中心の炭素‒炭素単結合について波動関数 を用いた単純な結合モデルによる考察を行った。 炭素‒炭素単結合は、炭素の価電子である 2s 軌 道と 2p 軌道による混成軌道が炭素原子間において 同位相で重ね合わされた結合性軌道を作ることに よって形成される。このとき 2s 軌道は原子中心か ら 0.2 Å程度の距離に波動関数の振幅がゼロとなる 節(ノード)を持つことから、結合性軌道波動関数 においても炭素原子周りにノードが生じることにな る。これが実験価電子密度分布における炭素原子周 りで離散的なノード構造が見られた理由である。 続いて、結合中心付近の実験価電子密度分布に注 目すると、電子密度が薄くなっていることがわかる。 結合性軌道における原子間の波動関数の重なりにこ のような分布を示すことは直観的には理解できない。 そこで、高精度な LC-DFT 計算を実施した。 DFT 計算では実験から得られた構造パラメータを構造最 適化せずに使用しており、実験価電子密度と直接比 図 1 in situ XAFS 測定。 ( a ) in situ XAFS 測定に用いた電解セルの概観、 ( b ) BL 14 B 2 において構築した実験の セットアップの写真、 ( c ) 得られた Rh K 端 XANES スペクトル。文献 1 より一部改変し掲載。 108 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.2 SEPTEMBER 2025 FROM LATEST RESEARCH 較できるように、全電子密度分布から各原子の 1s 2 軌道に対応する内殻電子軌道の寄与を差し引いた。 図 2 (a) , (b) に示すように理論価電子密度分布は全 体的に実験価電子密度分布と高い精度で一致を示し、 原子周りで見られるノード構造や炭素‒炭素結合中 心で電子密度が薄くなるなど微細な構造を含めて良 く再現している。この結果は、電子相関の影響を含 んだ分子軌道状態を実験的に捉えており、理論計算 と直接比較できる精度と分解能、波動関数の微細な 構造を含めた議論が可能であることを示している。 このように精密価電子密度解析が理論計算と直接 比較できる精度と分解能に達したことで両者を組み 合わせたより高度な解析が可能となる。ここでは、 五員環と六員環がつながったような分子構造を持 つ Cytidine に注目し、価電子内のπ結合のみの抽出 に挑戦した。六員環内の炭素‒炭素間で形成される π結合は分子平面内にノードを持ち、分子面垂直方 向に伸びた分布を示すことが期待される。まずはπ 結合をもたない単結合部位の実験価電子密度分布の 結合軸上断面図を確認した。例えば、五員環の C3 ‒ C4 結合二次元断面図をプロットすると (図 3 (a) 上部) 、σ結合の特徴である軸対称な分布が観測さ れた。次に、π結合の寄与が期待される六員環の C1-C2 結合についてみると、同様に軸対称な分布が 得られた (図 3 (a) 下部左側) 。これはπ結合とσ結 合が空間的に混在する価電子密度分布全体の特徴を 反映している。そこで、理論計算の結果と組み合わ せて実験価電子密度分布からπ結合のみを抽出する。 二重結合は、 2s2p 混成軌道による 2 σ結合と、余っ た 2p 軌道間で形成されるπ結合から構成される (図 3 (b) ) 。このうち、エネルギー的に安定な 2 σ結合 に相当する電子密度について理論計算から抽出した 電子密度分布を、実験で観測された価電子密度分布 から差し引けばよい。その結果が 図 3 (a) の下部右 側である。 この結果の電子分布は、分子面内ではノードと なっており、分子面に垂直方向に伸びた分布が得ら れ、予想されるπ電子分布の異方性と一致する。理 図 3 Cytidine におけるπ結合の可視化。 (a) 実験価電子密度分布における C 3 -C 4 結合の断面を赤の破線枠内に、 C 2 C 1 結合の断面を青の破線枠内に示す。 (b) 単純化された C=C 結合のエネルギー図。 図 2 Glycine の (a) CDFS 法および (b) DFT 計算による 価電子密度分布の二次元カラーマップ。 SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.2 (2025 年 9月号) 109 最近の研究から 論計算と組み合わせ、分子軌道をエネルギー的に分 解することで、選択的に分子軌道の実空間分布を明 らかに出来ることが実証された。 最後に、回折データの空間分解能と得られる価電 子密度分布の関係について示す。ここでは、観測 された最も高角の回折反射の面間隔 d (=λ /2sin θ) を価電子密度分布における実空間分解能と定義す る。これまで議論してきたようなノードなどの微細 な構造を観測するためには、高い空間分解能データ を取得する必要がある。分解能による価電子密度分 布の差について 図 4 (a) に示した。高分解能データ ( d > 0.28 Å )の場合の高分解能データでは、ノード などの微細な構造が明瞭に観測されているのに対し て、低分解能データ( d > 0.50 Å )ではこれらは見 られない。このことが、実験室系の回折実験では価 電子の詳細が明らかにできない理由である。電子状 態の本質的な理解のためには、 d 値が 0.30 Å より小 さな回折反射強度を十分な統計精度で観測しなけれ ばならない。価電子密度解析では、高エネルギーか つ高輝度な X 線を利用することが望ましい。 また、高角領域の回折反射の測定には温度の影響 も無視できない。特に構成原子の異方的な熱振動は、 電子密度分布の高角領域の回折反射に大きく影響す る。高エネルギーの X 線による実験であっても、熱 振動の影響が大きく有効的な空間分解能が不足する 場合には、細かな構造が見えない滑らかな分布が得 られてしまう (図 4 (b) ) 。したがって、理論計算と 直接比較できる価電子密度分布を得るためには、大 型放射光施設の高品質な X 線を利用することに加え て、その X 線の品質を最大限に活かすための実験環 境の構築にも追求する必要がある。 6.総括と今後の展望 本研究では、放射光 X 線を用いた精密単結晶 X 線 回折実験を行い、 Glycine と Cytidine の価電子密度 分布を観測した。観測された価電子密度分布は波動 関数の性質を反映した複雑な構造を示し、最先端 の高精度 DFT 計算の結果とも極めて一致を示した。 これは、これまで分光学的な実験手法により得られ るエネルギーとの一致を主な研究指針として発展し てきた理論計算が、実空間においても実験とよく整 合することを明確に示す結果となった。これにより 実験と理論計算を組み合わせた解析の可能性がさら に広がり、分子軌道がエネルギー的に分解されるこ とに注目することで、π結合のような各軌道の抽出 が可能であることを示した。これらの手法を可能と 図 4 (a) 45 K の Glycine の回折データ( dmin = 0 . 28 Å )について、 d > 0 . 28 Å までの反射を用いた高分解能な価 電子密度解析結果 (上)と、 d > 0 . 50 Å までの反射を用いた低分解能な価電子密度解析結果 (下) 。低分解能 な価電子密度分布では、ノードなどの微細な構造が見られない。 (b) 35 K (上)及び 100 K (下)で測定した Cytidine の価電子密度解析結果。測定温度が高いと観測可能な d 値が狭まり、分解能が低下する。 110 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.2 SEPTEMBER 2025 FROM LATEST RESEARCH するためには、 SPring-8 の高品質な放射光のポテン シャルを最大限に活かす必要がある。 本研究では、古くから極めて精密に調べられてき た標準的な分子を用いてこの手法の信頼度について 検証した。今後は、高機能な分子性結晶、複雑な相 互作用が内在する系、特異な化学結合を実現する系 などへ研究対象を拡張していく。 参考文献 [1] T. Hara, M. Hasebe, T. Takao, T. Naito, Y. Nakamura, N. Katayama, T. Taketsugu, and H. Sawa, J. Am. Chem. Soc. 146 , (2024) 23825. [2] S. Kitou, T. Fujii, T. Kawamoto, N. Katayama, S. Maki, E. Nishibori, K. Sugimoto, M. Takata, T. Nakamura, and H. Sawa, Phys. Rev. Lett. 119 , (2017) 065701. [3] S. Kitou, T. Manjo, N. Katayama, T. Shishidou, T. Arima, Y. Taguchi, Y. Tokura, T. Nakamura, T. Yokoyama, K. Sugimoto, and H. Sawa, Phys. Rev. Res. 2 , (2020). [4] H. Iikura, T. Tsuneda, T. Yanai, and K. Hirao, J. Chem. Phys. 115 , (2001) 3540. 原 武史 HARA Takeshi (現所属) 国立大学法人 東北大学 理学研究科 物理学専攻 微視的構造物性 〒 980 - 8578 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉 6 - 3 TEL : 022 - 795 - 5600 e-mail : takeshi.hara.d 2 @tohoku.ac.jp (課題遂行時の所属) 国立大学法人 名古屋大学 工学研究科 応用物理学専攻 〒 466 - 8603 愛知県名古屋市千種区不老町 澤 博 SAWA Hiroshi (現所属) 名古屋産業科学研究所 〒 464 - 0819 愛知県名古屋市千種区四谷通 1 丁目 13 ノア四谷ビル 2 F e-mail : hiroshi.sawa@nagoya-u.jp (課題遂行時の所属) 国立大学法人 名古屋大学 工学研究科 応用物理学専攻 〒 466 - 8603 愛知県名古屋市千種区不老町 SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.2 (2025 年 9月号) 111 最近の研究から