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ノーベル化学賞に寄せて
最先端高輝度シンクロトロンX 線が拓く:MOFの学理から社会実装まで
現場知×学際連携が駆動する「設計←→計測←→実装」の高速ループ
On the Nobel Prize in Chemistry
Enabled by State-of-the-Art Synchrotron X-rays:From MOF Science to Real-World Deployment
An Accelerated Feedback Loop of Design ←→ Measurement←→ Implementation, driven by on-site know-how × interdisciplinary collaboration

執筆者情報

執筆者 Author

坂田 修身 SAKATA Osami、池本 夕佳 IKEMOTO Yuka

所属機関 Affiliation

(公財)高輝度光科学研究センター
Japan Synchrotron Radiation Research Institute

抄録/Abstract

 本稿は、2025年ノーベル化学賞(MOF)を起点に、最先端高輝度シンクロトロンX線が「設計←→計測←→実装」のループを具体的に加速してきた根拠と実践知を、日本発の貢献とJASRIの連結機能の視点で整理する。受賞への敬意を表しつつ、金属有機構造体(MOF)が「予測可能な設計・合成」により固体化学の視座を刷新し、巨大比表面積と可変孔径を武器に実用・産業実装へ展開した意義を概観する。日本発の貢献(体系化→動的概念→薄膜・界面)を軸に、シンクロトロンX線が同ループを高速化し、MOF-on-MOF界面エピタキシーの実証を通じて学理からPoC・量産へ橋渡しした道筋を描く。とくに第5章では、施設研究者の「現場知」に基づく測定系の刷新が、学際連携を触媒としてループを加速したプロセスを紹介する。さらに次の10年に向け、計測×データ×人材の統合とKPI‒TRL対応、IP‒データ連関の実装により、日本型マテリアルズ・インフラ(合成→計測→データ→知財→実装の直結運用)を強化し、競争力と経済安全保障の向上に資する展望を示す。その確立に向けて、JASRIは中核的な「連結点」として一翼を担う。

本文

公益財団法人高輝度光科学研究センター 常務理事 坂 田 修 身 利用推進部次長 池 本 夕 佳 ノーベル化学賞に寄せて 最先端高輝度シンクロトロンX 線が拓く :MOFの学理から社会実装まで 現場知×学際連携が駆動する 「設計← →計測← →実装」の高速ループ On the Nobel Prize in Chemistry Enabled by State-of-the-Art Synchrotron X-rays:From MOF Science to Real-World Deployment An Accelerated Feedback Loop of Design ← → Measurement ← → Implementation, driven by on-site know-how × interdisciplinary collaboration Abstract 本稿は、 2025 年ノーベル化学賞( MOF )を起点に、最先端高輝度シンクロトロン X 線が「設計← →計測← → 実装」のループを具体的に加速してきた根拠と実践知を、日本発の貢献と JASRI の連結機能の視点で整理する。 受賞への敬意を表しつつ、金属有機構造体( MOF )が「予測可能な設計・合成」により固体化学の視座を刷 新し、巨大比表面積と可変孔径を武器に実用・産業実装へ展開した意義を概観する。日本発の貢献(体系化→ 動的概念→薄膜 ・ 界面)を軸に、シンクロトロン X 線が同ループを高速化し、 MOF-on-MOF 界面エピタキシー の実証を通じて学理から PoC ・量産へ橋渡しした道筋を描く。とくに第 5 章では、施設研究者の「現場知」に 基づく測定系の刷新が、 学際連携を触媒としてループを加速したプロセスを紹介する。さらに次の 10 年に向け、 計測×データ×人材の統合と KPI ‒ TRL 対応、 IP ‒データ連関の実装により、日本型マテリアルズ ・ インフラ(合 成→計測→データ→知財→実装の直結運用)を強化し、競争力と経済安全保障の向上に資する展望を示す。そ の確立に向けて、 JASRI は中核的な「連結点」として一翼を担う。 1.はじめに:受賞への敬意と意義 ノーベル財団(王立科学アカデミー)は、金属有 機構造体( Metal–Organic Frameworks ( MOF ) )の 「予測可能な設計・合成」を確立し固体化学の見方 を刷新した功績として、このたびのノーベル化学賞 ( 2025 年)に北川進教授(京都大学)を含む 3 氏が 選 定 さ れ ま し た。 SPring-8 / SACLA / NanoTerasu の利用者コミュニティとして心より祝意を表します。 Richard Robson 教授は配位結合を用いて 3 次元ダ イヤモンド型等の拡張骨格を予見的に構築し、 空孔 ・ 安定性 ・ イオン交換などの概念を切り開き、 Omar M. Yaghi 教授は MOF の骨組みになる基本部品と、そ の部品を設計図どおりに組み上げて材料を作る考え 方(レティキュラー化学)を確立し巨大比表面積と 機能多様化を示し、北川教授はガス吸着を実証し、 外場やゲスト応答で形態が可逆変化する「ソフト多 孔体」を提唱されました。 3 者の相補的貢献によっ て貯蔵・分離・触媒などの産業応用への道が開拓 されました。つまり、設計学としての MOF を確立 し、社会実装にまでされた点が評価の中核であると、 ノーベル財団の Scientific Background [1] から理解し ています。 体系化→動的概念→薄膜・界面という日本発の知 の軸を再定義すると認識した今回の受賞は、 「作る (合成) 」 と 「測る (構造 ・ 機能解析) 」 が車の両輪となっ て、材料観そのものを更新してきた歩みへの賞賛で もあります。本稿では、日本発の貢献に焦点を当 て、体系化( 1998 )→動的概念の確立( 2002–2003, 2009 )→薄膜・界面への展開( 2009–2010 )という 知の軸を手がかりに、放射光が「分析ツール」を超 えて学理と実装を橋渡ししてきた歩みを概観しま す。すなわち最先端放射光は、分析ツールを超えて 206 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 SPECIAL COLUMN Congratulations on the Nobel Prize in Chemistry! MOF だけでなく新材料の学理の革新を設計学へ翻 訳し、概念実証( PoC : Proof of Concept :実環境条 件や客観指標( KPI )で有効性を確かめる段階)か ら量産への橋渡しまでを支えてきたと、我々は信じ ています( 図 1 ) 。 2.観る・測るが築いた MOF 科学の土台 MOF は、金属イオンと有機配位子からなる多孔 性配位高分子( PCP : Porous Coordination Polymer ) であり、角砂糖 1 個の体積にサッカー場級の比表面 積、という定番の比喩で知られます。とりわけフレ キシブル MOF のような柔軟性が実現した背景には、 見る・測る・確かめるの徹底がありました。その場 in situ (その場観察) ・ Operando (動作中のそのも のを観察) ・ time-resolved (時間分解)を束ねる中 核として、放射光はまさにその最前線です。 MOF/ 多孔性配位高分子の理念は早くから設計学 として体系化され【 Nobel ’ 25 → ( 40 ) 】 * 1 , [2] 、 【 Nobel ’ 25 → ( 27 ) 】 [3] ) 、ゲスト応答・呼吸( gate-opening ) が結晶学的に実証され( Kitaura 2002 【 Nobel ’ 25 → ( 44 ) 】 [4] 、 2003 【 Nobel ’ 25 → ( 46 ) 】 [5] ) 、 soft porous crystals の概念が提案されました ( Horike 2009 【 Nobel ’ 25 → ( 41 ) 】 [6] ) 。全体の俯瞰と応用展開については 包括的レビュー [7] もご参照ください。 MOF 研究の急速な進展の陰には、結晶工学・多 孔性機能の系統化とともに、精密な「見る・測る」 技術が不可欠でした。 2004 年の総説【 Nobel ’ 25 → ( 27 ) 】 [3] は、結合子と連結子からなる骨格設計とと もに、貯蔵・交換・分離など機能を「測り、目録化 する」こと、さらに外場(温度・圧力・光・電場 等) やゲスト分子への応答により構造が変化する“動 的結晶 ” の挙動解明を、次段の挑戦として据えます。 これは、多孔体を「作る科学」だけでなく「測って 機能原理解明へ接続する科学」を明確に位置づけた もので、以後の発展の礎となりました。 あわせて、包括的総説 [7] は、 MOF の基礎から応 用までを見取り図としてまとめ、設計の考え方・分 類・用途の整理を通じて、分野をまたいだ共通の言 葉を与えました。また、ソフトポーラス結晶として の MOF への展開 [6] は、構造-機能相関を動的現象 として記述する分析枠組みを与え、実験法(吸着・ その場計測・分光・散乱)の拡張を後押ししました。 こうした基礎は、放射光を用いたその場/表面/界 面解析の系統的蓄積により現場で具体化されました。 代表例として、 CPL-1 のナノチャネル内に吸着した O 2 を MEM/Rietveld 法(粉末 XRD から電子密度を 復元する MEM 〔最大エントロピー法〕と、結晶構 造を精密化する Rietveld 解析の併用)で直接可視化 し、 ( O 2 ) 2 の一次元ラダー配列と強い閉じ込め効果 ( 90 K での固体様挙動) を示しました [8] 。これは 「観 る・測る」が MOF の動的機能解明に直結すること を早期に示した決定的成果です。 北川教授研究グループの多様な MOF の開発に際 し、 SPring-8 で多数の課題が実施されました。 BL02B2 の粉末 X 線構造解析を用いて、 MOF が 選択的に物質を吸着している状態や、様々な条件で 吸着・脱着する状態・過程の観察や、その際の分子 レベルでの機構が解明され、多様な MOF の機能評 価とその情報をもとにしたデザインに貢献されまし た。次の実績は、 SPring-8 が MOF の研究、開発を 支えてきたことを示唆しています。 ───────────── * 1 本稿の【 Nobel ʼ 25 】は『 Scientific Background to the Nobel Prize in Chemistry 2025 : MOFs 』 ( 2025 年 10 月 8 日公開) で引用のある文献を示す。 矢印の番号は同 PDF 内の参考文献番号。 図 1 設計 ← → 計測(含 : データ解析)← → 実装が相互 に連関する高速ループの概念図。最先端放射光が 各段階を定量的に支援し、新材料における「放射 光分析 → 学理的転換 →社会実装」の循環を駆動。 SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 207 寄稿 祝! ノーベル化学賞受賞 3.薄膜・界面ヘテロエピタキシー(界面整合)の 設計指針へ 薄膜化・配向制御・界面設計でも、表面 X 線回折 ( SXRD )により in-plane/out-of-plane の結晶方位・ 配向を定量できる点で高輝度放射光は決定打でした。 液相エピタキシー ( LPE ) のステップフロー成長と、 レイヤー・バイ・レイヤー( LbL )成膜に加え、配 向チャネルをもつ配位薄膜(先行例) 【 Nobel ’ 25 → ( 80 ) 】 [9] を含むプロセス最適化により、高結晶性で 配向制御された MOF 薄膜を実現しました( 【 Nobel ’ 25 → ( 78 ) 】 [10, 11, 12] ) 。 表 面 X 線 回 折( SXRD ; in- plane / out-of-plane )によって結晶方位を直接検証 する評価系を確立しました [13] 。 次の段階として、 BL13XU (当時)で構築した その場 XRD 計測環境を用いることで、バルクで は吸着を示さない系でも、ナノメートル厚の配向 薄 膜 化 に よ っ て、 ゲ ー ト 開 閉 挙 動( gate-opening dynamics )の可逆性やゲスト分子の可逆な吸着/放 出挙動( guest adsorption/desorption )を実証しまし た [12, 13] 。たとえば、 「分子サイズのふるい」という 比喩が示すように、 MOF の孔は、目的の分子だけ を選び取る「選択フィルター」として働きます。選 択性(吸着・拡散)を理解するには、孔の形や揺ら ぎをその場で測る必要があります。 SPring-8 は高輝 度 X 線で、結晶の並びや微小なゆがみ、温度や圧力 で変わる動きを、実験中にリアルタイムで「見える 化」してきました。利用者にとっては、単なる装置 提供ではなく、 「作る← →測る← →設計」を速いルー プで回す現場力 ─ これは SPring-8 が蓄積してきた 最大の資産です。 4.社会実装への橋渡し:PoC→量産 ・ スケールアップ SPring-8 の貢献は「最先端の高精度な分析」に留 まりません。界面・階層・動的現象を扱う実験設 計とデータ解釈を磨き、材料の「設計学」への知の 翻訳と高度化を牽引してきました。象徴的なのが、 MOF のコア‒シェル( MOF-on-MOF )単結晶を用い、 界面エピタキシーにおける結晶学的格子整合(とり わけ面内回転を含む整合)関係を高輝度 X 線回折に より明らかにした研究成果です 【 Nobel ’ 25 → ( 79 ) 】 [14] ( 図 2 ) 。 Zn-MOF 単結晶上に Cu-MOF 単結晶シェル (厚さ> 20 μm )を成長した試料を調べ、シェルは 基板に対して 11.7 ° 回転し、 ( 5 × 5 ) core 格子(√ 26 ×√ 26 ) shell 格子で整合していることを見出しまし た。新しい材料開発の場合よくあることですが、こ の測定では試料サイズはわずか約 200 μm と小さく、 しかも大気中では不安定でした。このため試料雰囲 図 2 MOF-on-MOF 界面ヘテロエピタキシー(面内 回転を含む格子整合)を高輝度 X 線回折で検証 【 Nobel ʼ 25 → ( 79 ) 】 [ 14 ] 。学理の転換を設計指針へ とつなぐ基盤となった成果。 MOF 試料を中心にほかの関連するものも含めた 実験課題は、北川教授が実験責任者 70 件 (2002- 2023 年度) 、 共同実験者 31件 (2005-2025 年度) (2025 年 10 月時点) 、論文登録は 91件。主に利 用された共用ビームラインは BL02B2、BL13XU。 参考:北川教授がメンバーになっていない他の研 究グループによるタイトルに MOF が入っている 実験課題は 156 件、論文登録は 31 件 (いずれも 2002-2025 年 度 調 べ ) 。 参 考:InCites a に よる Citation Topics の結果は、MOF 関連の実施課題 数は 399 件、SPring-8 成果論文は 234 件(1997- 2025 年度調べ) 。 ───────────── a 研究論文、及びその被引用情報を元にした研究業績の分析ツール。 Web of Science の提供元である Clarivate Analytics (クラリベイト ・ アナリティクス)社の製品。 SPring-8 × MOF 主要重要業績評価 KPI (JASRI 内部集計) 208 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 SPECIAL COLUMN Congratulations on the Nobel Prize in Chemistry! 気をヘリウムガスにし X 線のビームサイズを制御す るなどの工夫をした結果、 計測に成功しました。 (具 体的な開発的なことは次の章で簡潔に触れます。 ) この成果は、分離膜設計における孔径・柔軟性・ 界面整合の最適化につながり( MOF 薄膜のヘテロ エピタキシャル成長・配向制御の X 線実証) 、 「多孔 性結晶」から「機能を設計的に組み込む材料」への 学理的転換を推進し、多孔性材料科学の実用化への 道の一歩となりました。一方、結晶のダウンサイジ ング自体が構造可逆性や相安定性を制御し、 「形状 記憶型ナノ細孔( MSME ) 」のような準安定開孔相 の単離・保持と熱刺激による復帰を可能にすること も示されています [15] 。これは吸着応力に起因する 相転移の設計自由度を拡張し、膜分離やスイッチン グ素子への応用設計に直結します。さらに、その場 計測を組み合わせ、吸着・拡散・相転移の構造ダイ ナミクスと、分離係数や応答速度などの具体的な製 品性能とを直接ひも付ける枠組みの整備に貢献しま した。例: BL02B2 を用いて CO 2 吸着に伴う構造転 移の時間分解その場 XRD からダイナミクスを抽出 し、分離係数・応答時間といった KPI に落とし込む 枠組み [16] 、柔軟 MOF に対する時分割 / その場 XRD により相転移速度論を同定し、膜の分離係数・応答 時間に接続 [17] 。これらにより、ガス貯蔵では欠陥 / 部位設計や金属ナノ粒子との MOF 被覆による吸蔵 密度・放出条件の改善( / 調整) [18] 、分子認識触媒で は、反応点のすぐ周りの配置とその外側の環境を整 えて、どの反応経路を通るかを選びやすくし、計測 結果をすぐ設計に戻す短いサイクルで実践知の蓄積 につながりました。 なお Ni-MOF-74 の熱転換を PDF/XAFS/HAXPES で追跡し、熱処理条件により Ni 2+ が金属 Ni へと還 元され、価電子帯が狭くなる( d-band center が低下 する)ことを示した報告は、製造要因を電子状態・ 触媒指標に結びつける好例です [19] 。同様に、 Pd@ HKUST-1 の 水 素 吸 蔵 向 上 は、 放 射 光 HAXPES/ NEXAFS により Pd → MOF ( Cu )への界面電荷移 動に起因することが示されています [20] 。 以上の研究例は、後のフレキシブル MOF や刺激 応答性材料の研究を方向づけ、構造‒機能相関の理 解を深めただけでなく、分離膜、ガス貯蔵、分子認 識触媒などの応用展開 [13] とつながる、社会実装の 技術基盤となりました。結果として、柔軟 MOF や 刺激応答材料の方向づけに加え、分離膜 ・ ガス貯蔵 ・ 触媒などの工業応用へとつながる社会実装の技術基 盤が形成されています。 今後は SACLA のフェムト秒 X 線( fs-XRD/XPS/ NEXAFS ) 、 MOF 特有のゲート開閉・吸着誘起相転 移・界面電子移動の緩和時間定数などの Operando 動的過程をフェムト~ピコ秒で直観測し、設計← → 実装のフィードバックを一段と高速化できます。も ちろん、数年後に実現する SPring-8-II の桁違いに高 輝度な X 線なども大いに役立ちます。 5.施設研究者の視点:現場が拓く 学際連携の醍醐味 2006 年当時、 JASRI に着任 6 年目のビームライン BL13XU の担当者であった坂田は MOF 研究とは無 縁でした。材料科学の専門で、当時は超高真空下で の半導体・金属単結晶表面、酸化物超薄膜、溶液電 極表面を X 線回折で調べていました。 2006 年、 JST-CREST 「表面改質構造と多重薄層 構造の解析」 プロジェクト ( PJ ) の研究代表者であっ た北川宏先生(当時より北川進先生と近しい関係に あった)から、同 PJ へ参画の打診をいただきました。 MOF 膜は未知であったが、それまでの MOF ではな いが似たような膜試料では当時の放射光でも容易に 損傷して測定できない経験を持っていたので、参画 を見送りたい旨をお話しました。そこで背中を押し たのが北川宏先生の次の言葉 ─ 「取り組む前からで きないというのは受け入れられない。あなたが X 線 計測・解析できないなら世界でも誰もできないから、 諦める」 。逃げ道は消えました。やると決め、その PJ に参画した以上、やり切り、成果を出すだけで した。また、 北川進先生もその PJ のメンバーであっ たので、それを機会にお二人の北川先生のグループ と共同研究が始まりました。 予想どおり、空気中の試料は放射光 X 線の数秒の 照射で壊れ、結果はゼロ。ここから、頭をフル回転 させました。耐熱ポリイミドカプトン膜ドームで試 料雰囲気制御→低温化や電場印加→ in situ インピー ダンスまで、測定系を段階的に刷新し、ボトルネッ クを一つずつ潰しました( 図 3 ) 。半導体ヘテロエ SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 209 寄稿 祝! ノーベル化学賞受賞 ピタキシーで鍛えた構造解析・実験設計の作法を MOF へ横展開し、 「壊れるから測れない」 状況を、 「壊 さずに測る」標準手順に置き換えました。これは単 なる装置の増設ではなく、計測の仕方そのものの再 定義でした。 並行して、北川進先生ら試料作製側との往復運 動を加速させました。孔サイズや柔軟性の “ 設計変 数 ” を測定で可視化し、フィードバックで合成条件 へ戻す。作る← →計測← →設計の小ループを短周期化 すると、 MOF は「多孔性結晶」から「機能を設計 的に組み込む材料」への学理的転換が起きているの を肌で感じました。 MOF の孔サイズ制御については、 北川進先生が率いる試料作製グループと、坂田のよ うに半導体ヘテロエピタキシーの構造解析に強みを 持つ異分野研究者との協働が、ノーベル化学賞につ ながる学理的転換を推進する要の一つであったと信 じています。つまり、異分野の知恵を「接続」でき る場所 ─ SPring-8 でこそ研究は進みました。 要するに、ビームラインは学際研究の共創の場で す。利用者、とくに全く新しい材料開発に挑戦して いる研究者×施設研究者にとって、 2 つの価値が決 定打です。 [ A ] 相互作用・共成長的な開発研究で計測も進化 ─ 最前線の課題に現場で向き合う対話から、 計測 ・ 解析・設計が双方向に作用し、測定そのものが 更新される。 北川進先生のように「未知の材料科学の地平を 切り拓く研究者」が抱く課題に対して、 JASRI のス タッフは放射光という共通言語を介し、現場で直接 向き合いながら協働します。その対話の中で、 計測 ・ 解析・設計の知が双方向に作用し合い、共に成長す る研究開発のループが生まれます。さらに、そこで 得た知見やノウハウを次の利用者へと還元し、社会 実装の推進力へ変えていく ─ その循環の中心にい る私たちは、まさに「共創の専門家集団」といえる でしょう。 [ B ] プロ同士の敬意が最短経路を開く ─ 合成 ・ 計測 ・ 解析の境界で互いの専門を尊重する姿勢が、回 り道を減らし最短経路を切り拓く。 「餅は餅屋」として、メンタル的にも、互いの専 門性を深く尊重しながら切磋琢磨できることこそ、 私たちの日々の原動力であり、職業的な誇りと考え 図 3 その場同時計測のための試料環境と測定系。左上はヘリウムガスが導入できる初期のカプトンドーム。左下は He 試料冷却・加熱器、ガス導入、物性測定用プローバーを備え、回折計に取り付けて構造( XRD )と物性の同時測 定を実現可能。写真は装置からカプトン膜を外した様子、右は回折計への装着様子。 210 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 SPECIAL COLUMN Congratulations on the Nobel Prize in Chemistry! ています。この 2 つの組み合わせは、研究を一段で はなく数段押し上げる力を持ちます。今後は、ここ に AI の探索・最適化を重ね、設計← →計測← →実装 のループをさらに短く、確かに回します。現場知を 形式知化し、次世代へ手渡します。それが施設に属 する研究者、技術者そして利用支援者全員の責務で あり、つまり施設スタッフの醍醐味のひとつです。 6.次の 10 年へ:計測×データ×人材で磨く競争力 と経済安全保障 文部科学省、理化学研究所、量子科学技術研究開 発機構、各量子ビーム施設と力を合わせ、 JASRI を 利用者と上流、中流、下流までの放射光施設の基盤 をつなぐ連結点として機能させることが多くの成果 創出にこれまでも繋がってきたと信じています。こ れからは来るべき SPring-8-II の高輝度・高コヒーレ ンスを武器に、時分割/オペランド/マルチモーダ ルを一段と前へ進めます。 NanoTerasu や他の量子 ビーム施設とも連携して、合成から社会実装までを 一直線に結ぶ日本型マテリアルズ・インフラを築き ます。 「科学を社会価値へつなぐ」転換の速度を高 めることは、理化学研究所が SPring-8-II に向けて掲 げているように「そして、強い日本へ」に必須です。 研究基盤の安定運用(高い信頼性の稼働、人材確 保、予防保全など)を徹底し、実証( PoC )から量 産・スケールアップへの橋渡し(知財とデータの連 携、規格化・標準化、 IP– データ連関 * 2 、人材・設 備への継続投資)を強化します。 KPI (例 : 分離係数、 応答時間、膜透過率)を TRL * 3 と対応付け、成熟 度の到達(例: TRL4 → 6 )を可視化します。計測 データとデータ科学の融合(計測データの活用、機 械学習やベイズ最適化の導入など) を推進します ( 図 4 ) 。さらに、人材育成パイプライン(大学院→産学 PoC →量産現場)を貫き、若手が思い切り挑める場 を育てます。結果として、重要物資・蓄電材料・触 媒の国産化を着実に前進させるのに不可欠な国家旗 艦基盤の一つである量子ビーム施設を研究開発の舞 台にするため、連結点として JASRI は社会に貢献 します。 ───────────── * 2 研究データ( DOI 等)と知財(特許・ノウハウ・契約)を相互参照可能に 一体管理すること。 * 3 TRL ( Technology Readiness Level ) :技術成熟度の段階指標。一般に TRL 1 9 を用い、 TRL 4 =要素技術のラボ実証、 TRL 5 =関連環境での要素 実証、 TRL 6 =関連環境での系統実証の目安。 図 4 量子ビーム×データ×人材の統合を JASRI が連 結点の一つとなり、 「科学を社会価値へ」の転換 を加速して競争力と経済安全保障を支える次の 10 年の姿。 その後、JST-CREST「元素間融合を基軸とし た機能性材料の開発」 、JST-ACCEL「元素間融合 を基軸とする物質開発と応用展開」 、環境省「地 域資源循環を通じた脱炭素化に向けた革新的触媒 技術の開発・実証事業」においても、北川宏先生 の研究 PJ に坂田は関わらせていただきました。 試料対象は MOF から多元素ナノ合金へ拡張で きました。さらに、結晶学を超えた局所構造解析 の手法開発や、X 線分光学による電子状態・原子 間電荷移動の解明に取り組むことができました。 専門を守るだけでは地平は開かれません。越えな ければ、その美しい景色には届きません。現場 に踏み込み、測定系を自分たちで作り替えるほど、 見えるものは増えました。研究者としての自身の 技、 知識と視野はそこで急伸したと、 実感しました。 脱線コラム:MOF 試料だけでなく SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 211 寄稿 祝! ノーベル化学賞受賞 7.おわりに:ノーベル賞級成果を育むには、20 年・ 30 年の時を要する -長期的視野で支える量子ビーム国家基盤- ノーベル賞級の研究は、着想から学理の転換、概 念実証( PoC ) 、さらに産業実装・量産プロセスに 橋渡しされて社会価値として可視化されるまで、旗 艦の量子ビーム施設を総動員しても 20 年、 30 年と いう時間軸で成熟していきます。実際、今回のノー ベル化学賞に結びついた MOF の研究も、 1990 年代 末の体系化から、 2000 年代の “ 動的に呼吸する多孔 体 ” という概念実証、 2010 年代の薄膜・界面エピタ キシー制御、そして現在の分離膜・水素貯蔵・触媒 などの社会実装・ 量産フェーズという長い積層の 上にあります。その過程では、単なる装置貸しでは なく、試料が数秒で壊れるところから測定系そのも のを作り替え、構造・物性の同時計測やその場・時 分割計測を現場で組み上げ、合成← →計測← →設計の フィードバックを 10 倍速で回す人と知恵の蓄積が 決定打になってきました。 したがって、量子ビーム基盤への公的支援は「即 効薬」に留まらず、日本の経済安全保障と産業競争 力を下支えする国家インフラを 10 年、 20 年単位で 安定運用し、現場知・人材・計測系を更新し続ける 長期コミットメントとしてとらえていただきたい、 というのが私たちからのお願いです。 参考文献 文献リストの下線付きの著者名は、 corresponding author を 示す(複数の場合あり) 。 [ 1 ] The Royal Swedish Academy of Sciences. 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DOI: 10.1038/s42004-018- 0058-3 坂田 修身 SAKATA Osami (公財)高輝度光科学研究センター 常務理事 〒 679 - 5198 兵庫県佐用郡佐用町光都 1 - 1 - 1 TEL : 0791 - 58 - 0950 e-mail : SAKATA.Osami@jasri.jp SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 213 寄稿 祝! ノーベル化学賞受賞 池本 夕佳 IKEMOTO Yuka (公財)高輝度光科学研究センター 利用推進部 次長 〒 679 - 5198 兵庫県佐用郡佐用町光都 1 - 1 - 1 TEL : 0791 - 58 - 0961 e-mail : ikemoto@jasri.jp 214 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 SPECIAL COLUMN Congratulations on the Nobel Prize in Chemistry!