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超低温物理に関する国際会議ULT2025に出席して
Report on ULT2025: Frontiers of Low Temperature Physics

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執筆者 Author

田尻 寛男 TAJIRI Hiroo

所属機関 Affiliation

(公財)高輝度光科学研究センター 回折・散乱推進室 テンダーX線回折散乱チーム / JASRIナノテラス拠点
Tender X-ray Diffraction and Scattering Team, Diffraction and Scattering Division / JASRI NanoTerasu Research Center, Japan Synchrotron Radiation Research Institute

本文

公益財団法人高輝度光科学研究センター 回折・散乱推進室 テンダー X 線回折散乱チーム/ JASRI ナノテラス拠点 利用研究系分室 田 尻 寛 男 超低温物理に関する国際会議 ULT2025 に出席して 1.はじめに 2025 年 8 月 14 日から 8 月 19 日の期間にランカス ター大学で開催された超低温物理に関する国際会議 ULT2025: Frontiers of Low Temperature Physics に 出席・講演してきましたのでご報告します。今回の 現地オーガナイザーは、同大学の Richard Haley 先 生と Viktor Tsepelin 先生でした。ランカスター大学 は英国国内ではじめて低温物理の修士過程が設置 された大学としても知られており、英国における 低温物理の拠点の一つです。同大学での本会議の 開催は、 1990 年以来実に 35 年ぶりになります。出 席者は 100 名前後と比較的小規模な会議で、アット ホームな雰囲気のもと熱心な議論が交わされました ( 写真 1 ) 。 仙台からは、香港経由でマンチェスター国際空港 にむかい、そこから列車に乗り 1 時間半ほどでラン カスター市街に到着しました。同市街からランカス ター大学までは 1 時間に数本、 2 階建てバスが運行 されており片道 30 分弱くらいです。このようにラ ンカスター大学は市街からは十分離れていまして、 その代わり、いわゆる大学が一つの町といった規模 で、大学内には飲食店やバー、生活必需品を学内で 全て調達できるスーパーや専門店などが整えられて います。憩いのスペースや小さな公園もありカモが 放し飼いにされていたり、学生寮近くの低木の街路 樹にはウサギが住んでいたり、と自然にも恵まれた 環境です。 ランカスター大学は 1964 年に設立された比較的 新しい大学ですが、英国でも数少なくなったカレッ ジ制度を採用しています。 9 つのカレッジで構成さ れており、学生寮も各カレッジが運営しています。 会議出席者はほぼもれなく、 Cartmel カレッジの学 生寮で寝泊まりしました。学生寮は各人の部屋や共 有スペース・キッチンで構成される 10 名程度をひ とかたまりとしたフラットで区切られています。そ のフラットメイトの一員として、 1 週間弱の短いあ いだでしたがカレッジ寮生の生活も体験できまし た。学生寮のある Cartmel カレッジから George Fox Building ( GFX )会場まで歩いて 20 分弱とお伝え すれば、ランカスター大学の規模の大きさがわかっ ていただけると思います。 2.ULT2025 で議論されたこと オープニングトークは、地元マンチェスター大学 の Andrei Golov 先生が行いました。本会議のプロ グラムは各セッションが明示的にカテゴリーで区切 られていたわけではありませんでしたが: ( 1 ) 量子液体・固体( Quantum Fluids and Solids ) ( 2 ) 超流動 ・ 超伝導 ( Superfluids and Supercondutors ) ( 3 ) 量子乱流・渦( Quantum Turbulence and Vortex ) ( 4 ) 量子相転移( Quantum Phase Transition ) ( 5 ) ナノ電子系・ナノメカニクス ( Nano-electronics and Nano-mechanics ) ( 6 ) 量子デバイス・量子ビット ( Quantum Devices and Quantum Bits ) ( 7 ) 超低温冷却 ( Ultra-low Temperature Cooling ) といった話題でセッションがまとめられていました。 写真 1 ULT 2025 @ランカスター大学の GFX 会場前にて 232 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 WORKSHOP AND COMMITTEE REPORT なかでも、興味を引いたいくつかの話題について 紹介したいと思います。 話題 ( 1 ) 「量子液体・固体」や話題 ( 2 ) 「超流動・ 超伝導」に関連した話題では、よく知られたヘリウ ム 3 の A 相、 B 相という対称性の異なる超流動相の 最新の議論にくわえて、我々も研究対象としている 二次元ヘリウム固体について最新の研究成果を知る ことができました。ロンドン大学 Royal Holloway の Jan Knapp 博士による講演では、グラファイト上 ヘリウム 4 原子層 1 層構造に対して 2 層目に成長す るヘリウム 3 原子層が紹介されました。ヘリウム 3 はヘリウム 4 に比べより大きなゼロ点振動をもつた め必ず最表面(この場合 2 層目)に原子層を形成す るのですが、そのヘリウム 3 原子層は超流動の特性 も有する固体である「超固体」なのではないか、と 言われている系です。講演ではゼロ点振動をベース とした多体効果の影響が議論されていました。ただ し、これらの議論は物性測定による推測をもとにし ており、実験的な構造情報が欠落している点に注意 が必要で、超低温領域の構造プローブの必要性を改 めて認識しました。 話題 ( 3 ) 「量子乱流・渦」はマクロな量子現象と いえますが、超流動ヘリウム内に量子渦を発生させ るために、数百 kg はゆうにある実験装置全体を物 理的に回転させる実験風景や、電子バブルと呼ばれ る超流動ヘリウム内の空洞や量子液滴の観察などマ クロな実験でヘリウムの量子性に挑むやり方は、普 段我々が接することが少ないアプローチでとても新 鮮でした。これらの講演を目のあたりにして、個人 的には寺田寅彦先生の墨流しの研究を想起するよう な感覚を覚えました。 さらに、話題 ( 6 ) 「量子デバイス・量子ビット」 では、量子コンピューティングの実現という近年の 世界的な強い研究志向を反映してか、内容も多岐に わたり、講演者のボリュームは理論・実験ともに相 対的に多かったように思います (後で述べますが話 題 ( 7 ) と重複する内容も多かったです) 。その一例 が、液体ヘリウム上に固定した電子 1 個を量子ビッ トとするもので、スピンのコヒーレンス時間が 100 秒以上ということで有望視されていました。 話題 ( 7 ) 「超低温冷却」に関しましては、 nK 冷 却といったダイレクトに超・極低温を目指したもの から、話題 ( 6 ) と関連した実用上の観点のものま で多くの講演がみられました。すなわち、量子デバ イスとりわけ二準位量子系が正しく作動するために 必須な、いわゆる機械的振動やコンタミネーショ ン、量子デコヒーレンスをなくすための技術的な話 題も多く盛り込まれていました。この点は、冷却技 術に関してもコミュニティとして大きな興味の一 つなのだな、と再認識しました。たとえば、 Tjerk Oosterkamp 博士の (なんと) LEGO ブロックを熱絶 縁素材に使用した超低温冷却システムなどはウィッ トに富んだ例と感じました。 大規模なグループ研究も多く講演されていまし た。たとえば、ランカスター大学 Samuli Autti 先生 の 講 演 で は、 SCALES ( Superfluid Condensates in Astrophysics and Laboratory Experiments ) による中 性子星の研究が紹介されていました。さらには、ロ ンドン大学 Royal Holloway の Andrew Casey 先生に よる、 QUEST-DMC ( Quantum Enhanced Superfluid Technologies for Dark Matter and Cosmology ) に お けるダークマター研究の講演など、歴史のある超低 温物理と最新の宇宙研究をうまく融合させて研究を 進めるあたりは、欧州のふところの深さを感じられ る取り組みと感心しました。 3.著者のオーラル講演について 私は、 SPring-8 のビームライン BL13XU, BL47XU, BL29XU を 活 用 し た 成 果 [1-4] に つ い て、“ A novel structural probe for He atomic layers: Challenges and their solutions using surface X-ray diffraction ” と題し てオーラル講演して参りました。この研究は、兵庫 県立大学の山口明先生と東京大学低温センターの福 山寛先生との共同研究になります。グラファイト上 に形成される二次元系ヘリウムは、非常に大きな圧 力をかけない限り絶対零度で固体にならないヘリウ ムが、量子効果によって 1K 近傍で二次元固体とな る系で、低次元物性研究のプロトタイプとして知ら れています [5] 。 これまで、このようなヘリウム原子層に関する構 造観察は、その散乱断面積の大きさから中性子回折 の独壇場でした。一方で、理論計算の精度が向上す SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 233 研究会等報告 るに従い、新奇量子相の研究にはより精密な構造 情報が渇望されています。そこで、表面 X 線回折 ( SXRD ) [6,7] を超低温の新たなプローブへと成長さ せるべく、 1K 近傍まで冷却可能な SXRD 装置を製 作、 SXRD に適したグラファイト基板の探索も進め てきました [1] 。 20 keV 以上の高エネルギー X 線を活 用することで X 線照射による発熱の影響を抑えるこ とができ [2] 、ヘリウム 4 単原子層からなる不整合相 を SXRD で観察できております [3,4] 。 さて、私の講演はオーラル講演最終日のトリでし た。超低温分野では新参者で緊張していたのです が、さいわい直前の講演が同じく量子ビームであ る、中性子による超流動ヘリウム膜実験に関するも のでしたので、演者である中性子施設 ISIS の Oleg Kirichek 先生へ質問をした後に講演をはじめること ができ、リラックスして講演できました。 講演後は、低次元ヘリウム系の著名な研究者であ るロンドン大学 Royal Holloway の John Saunders 先 生から放射光 SXRD による構造観察へ期待のコメ ントをいただき、また国内で超低温物理を精力的に 進めておられる慶應義塾大学の白濱圭也先生(前回 ULT2022 のオーガナイザー)からも研究の進捗に 関して前向きなコメントをいただき、手応えを感じ た講演となりました。 特に、 SPring-8-II では高エネルギー X 線のコヒー レント光利用も現実的となることから、ヘリウム原 子層のコヒーレント光観察は今後ぜひとも推進し たいと志を新たにしました。先に話題に挙がった ヘリウム 3 の超固体に加え、グラファイト上ヘリウ ム1原子層の高密度領域で予想されている量子的 な Domain-wall 相やヘリウム原子層 2 層目で発現す るといわれている量子液晶相の実証は、その格好の ターゲットと思います。 4.ラボツアー ランカスター大学にて、故 George Pickett 先生の 研究室ツアーも開催されました。 mK/sub-mK を実 現する希釈冷凍機や核断熱消磁冷凍機を備えた実験 装置は、コンクリートを建材とした 2 階建ての構造 物に組み込まれており、かつ、真空槽を冷凍機本体 から取り外すために地下スペースがある、とても大 きな装置です。これらの装置群を間近で拝見するこ とができました。特に、いまだ実現してはいません でしたが、核断熱消磁冷却機構を 2 段備えた nK 到 達を目標に製作中(建設中と行ってもよいレベル) の実験装置は圧巻でした。 さすが超低温物理のメッカと感じた点として、ガ スタンクが多数連結されていて、そこに高価なヘ リウム 3 を貯蔵しているシステムを報告したいと思 います( 写真 2 ) 。容積をできる限り大きくしてい るのはヘリウム 3 のガス圧を大気圧より低くしてヘ リウム 3 の散逸を防ぐためです。ヘリウムガス高騰 のなか少量のヘリウム 3 を購入したことのある身に とってその貯蔵量は想像を絶している、と言わざる をえません。その規模には出席者のみなさんも感嘆 していました。 5.ソーシャルイベントについて 会 議 2 日 目 に は Cartmel カ レ ッ ジ に あ る Barker House Farm でバンケットが開催されました。今回 の会議では excursion としてのイベントはありませ んでしたが、会議 3 日目の午後はフリーでした。会 議事務局からはランカスター・パブマップが渡され、 出席者は市街に繰り出しました。 JASRI ナノテラス 拠点同僚の Daniel Foster 博士の地元がランカスター に近く、老舗のパブ Ye Olde John O'Gaunt で地ビー ルの MOORHOUSE を堪能しなさい、とおすすめさ れていたのでそこに向かいました。しかし、あいに く品切れで、町外れにあるパブ The Golden Lion に も訪問し、無事に MOORHOUSE にありつけました。 ランカスターは 1612 年のペンドル( Pendle )の魔 写真 2 巨大なヘリウム 3 ストレージ 234 SPring-8/SACLA/NanoTerasu Information /Vol.1 No.3 DECEMBER 2025 WORKSHOP AND COMMITTEE REPORT 女裁判で有名な魔女狩り事件の地でもあり、この The Golden Lion は Pendle Witch たちが最後のビー ルを飲んだパブと伝えられています [8] 。市街にある ランカスター城も訪れました。お城内に牢獄や裁判 所があり、一般に知られているお城とは趣が違うと ころがとても印象的でした。 ランカスター大学で低温物理講座を主催され て い た George Pickett 先 生 が 昨 年 ご 逝 去 さ れ た た め、最終日は George Pickett Memorial Day として、 Faraday Lecture Theatre Complex に て 追 悼 式 が 行 われました。 Pickett 先生のご息女による講演の他、 アールト大学 Vladimir Eltsov 先生の講演では、液 体ヘリウム中の量子渦生成と宇宙論における宇宙 ひもの生成が共通した現象であることを論じた 2 報 の論文 [9,10] (一報は Pickett 先生のグループ、他報は Eltsov 先生のグループによる)が 1996 年の Nature 誌の同じ号、しかも連番で掲載された話題などが 紹介されました。式典は終始あたたかい雰囲気で、 Pickett 先生の業績や人柄を偲ぶことができました。 参考文献 [ 1 ] H.Tajiri et al ., 論文投稿準備中 [ 2 ] A. Yamaguchi, H. Tajiri et al.: J. Low Temp. Phys . 208 (2022) 441. [ 3 ] A. Kumashita, H. Tajiri et al .: JPS Conf. Proc . 38 (2023) 011004. [ 4 ] A. Kumashita, H. Tajiri et al .: J. Low Temp. Phys . (2025). doi: 10.1007/s10909-025-03289-0 [ 5 ] W.P. Halperin ed .: Progress in Low Temperature Physics XIV (Elsevier, 1005), p213. [ 6 ] I.K. Robinson: Phys. Rev. B 33 (1986) 3830. [ 7 ] H. Tajiri: Jpn. J. Appl. Phys . 59 (2020) 020503, and reference therein. [ 8 ] https://thegoldenlionlancaster.wordpress.com/the- witches-room/ [ 9 ] C. Bauerle, G.R. Pickett et al .: Nature 382 (1996) 332. [10] V.M.H. Ruutu, V.B. Eltsov et al .: Nature 382 (1996) 334. 田尻 寛男 TAJIRI Hiroo (公財)高輝度光科学研究センター 回折・散乱推進室 テンダー X 線回折散乱チーム/ JASRI ナノテラス拠点 利用研究系分室 〒 980 - 8572 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉 468 - 1 TEL : 050 - 3496 - 8871 e-mail : tajiri@spring 8 .or.jp SPring-8/SACLA/NanoTerasu 利用者情報/Vol.1 No.3 (2025 年12 月号) 235 研究会等報告